ここは 私の生い立ちがメインです。
辛いこと悲しいこと いろいろな場面で出会ったこと
思ったこと 感じたこと。そして今

そんなことを書いていきます。

小学校低学年の頃 とにかく本を読むのが大好きで、小学校の図書室に入り浸りだった。
伝記・推理小説が大好き。ホームズ・ファーブル昆虫記・グリム童話・アンデルセン物語・神話の類などなど
とにかくあるだけ読んだと思う。
入学したての年に地元では水不足になってプールが中止になって「メロンパンと牛乳」という給食だった夏。
配水車がまわったりしてたなあ・・・
母が花屋をすることになり、徐々に家の中の歯車がおかしくなっていく。
父には愛人がおり、博打と女と遊び はこの頃からずっと続いていくことにもなる。
母は子供連れで家出を何回も繰り返した。おばあちゃんの家から2時間以上かけて小学校に通った記憶もある。
なんでこのときに離婚しなかったんだ?今で言うドメスティックバイオレンスもあった。
台所の椅子で殴られて椅子が壊れていたのも鮮明に覚えている。
2年生の頃の担任の先生の通知書へのコメント。
「ひとりでいることが多く、友達の輪に入ろうとしていない。が、本人もそれを気にしていないので不思議に思う」
というような感じのコメント文。今だったらヒキコモリって事なんぢゃ?(汗)
幼稚園でのワタシ めっちゃおとなしかった。人見知りも激しくて友達と呼べる友達も少なかったと思う。
とにかくお絵かきが大好きで、100枚つづりの落書き帳とクレヨンがあればそれでオッケー☆一日中遊んでました。
髪は長く日本人形のように可愛かったのですよ?!
初恋もこのころかなあ〜 あんまり記憶にないけど いとうくんが好きだったです。親同士も仲良かったんで結構遊んでいました。
幼稚園のころの給食でくじら肉が出たときに噛み切って飲み込むことができなくて、ずーーーっと口に入れたまま帰ってきたのを覚えています。(笑)友達とお弁当交換なんかもやってたなああ〜
このころは幸せだったと思います。お母さんが毎日髪をリボンで結ってくれてミツ編みにして登園していました。
でも家計は火の車だったらしい。生活費一日500円しか渡されてなかったそうです。(母の後日談)
弟のことはあんまり覚えてないなあ〜。かわいがっていたと思う。
幼稚園のころから既に一人でおばあちゃんの家にずーーーっとお泊りしていました。
幼稚園までの暮らし ごく平凡に暮らしていたように思う。が、記憶がほとんどない。
山の中の一軒やに居たように記憶しているが これも怪しい。
このころ先端恐怖症の源となる事件発生。竹やぶのなかで犬と追いかけっこしていたワタシはこけて竹の切り株で目元をぐっさり刺して血まみれになったらしい。バケツ一杯ほど血が出たとの話(本とか?)
とにかく目に刺さらなくてよかった。
あとは母親が後ろを振り返ると池でおぼれてアップアップしていたとかの話もある。
なにかと幼児期に事故を起こしたと思われます。
ボタン鼻につっこんで耳鼻科にも行ったって言ってたな・・・・・・(≧▽≦)
生まれたあと
(生後半年)
父の戸籍に入ったのは出生後しばらくたってからのこと。退院してから3〜4ヶ月?
私は叔母に預けられ育ちました。結局父は前の奥さんに三行半をつきつけられたらしく、
そのとき義兄もいたらしいのですがそんなことは知らずすくすくと育った私です。
私さえ生まれなかったら 父は前の奥さんのもとへ行っていたかもしれません。
このときも母は何を感じ何を考えていたか全く記憶にないそうです。
時がただ流れていただけなのかもしれないですね。
叔母は私をとてもよくかわいがってくれました。もちろん今でも大好きです。
いまは亡き叔父さんと一緒に私の世話をしてくれたそうで、両親から受けられなかった愛を叔母夫婦にたくさんそそいでもらいました。
生まれるとき 生まれる前のことも含めて、私の生まれる事情は大変ふくざつでした。
まず、不倫の子であったこと。
それが原因もあり、父は産院で私を堕ろせ!と金をばらまいてわめきちらしました。
そのことを聞いたのは小学生の時。
母から聞かされ もちろん大変なショック☆<( ̄□ ̄;)>☆ショック
そのときを機に父を死ぬほど憎むことにも・・・・。
私の病気の原因「心因反応」の素となったと 今ではおもいます。
生まれた時喜んでくれたのは母方の親戚たち。両親が喜んだかどうか知りません。
未熟児(2000g弱)で早産の上難産であったと聞かされ
1ヶ月以上保育器の中で生活していたそうです。
寒い雪の日の出来事・・・・
真紫色したわたしは産声をあげることができず
「けーっ ぇ けー ぇ」と仮死状態から復活したそうです。
そのとき母の意識はあったのかなかったのか
とにかく 私はそんな中生まれてきました。